Capturing the Stonemasters - an Interview with Dean Fidelman

2020.07.31

ストーンマスターたちの記録:ディーン・フィデルマン インタビュー

ストーンマスターとは、1970年代初期にロッククライミングのパイオニアグループである。自由な精神を持ったアウトサイダーの集まり。半裸でおこなう、スタイリッシュなロッククライミング。カリフォルニアの反体制文化と磨きぬかれた精巧なアスレチック。その影響はヨセミテの崖をはるかに超えた。彼らのこなれたワークウェアの着こなしは、今期のナイジェル・ケーボンのコレクションのインスピレーションの背景になっている。

オリジナルのストーンマスターの1人でもあり、事実上の専属フォトグラファーでもあったディーン・フィデルマンは先見の明があり、今では伝説となったクルーの記録撮影をしていた。ミノルタのSLRカメラで、ジョン・ベイチャーやリン・ヒルといったクライマーたちを自然なドキュメンタリースタイルで撮影し、歴史的なクライミングだけでなく、彼らの日々の生活の様子も撮影していた。

もっといろいろな話を聞きたくなり、カリフォルニアに電話をして、写真やストーンマスターたちのこと、そして90年代後期に現れたストーンモンキーについても語ってもらった。


ー まずはスタート地点から。クライミングと写真、どちらを先に始めたのですか?

実際、両方同時に始めたんだ。15歳のときに写真の授業を受けた。先生が昔からのシエラクラバーで、川でのラフティングと、クライミングも少しやっていた。課題の1つがサンフェルナンドバレーにあるストーニーポイントというところでクライマーたちの撮影をすることだった。それで自転車でそこに行って、ぐるっと見回したらロッククライミングしている人たちがいて、すっかり夢中になった。全てが織り込まれていた。人に出会って週末にジョシュアツリーやターキズロックに行くようになって、いつもカメラを持っていた。ほとんどすぐに、これが自分の情熱を注ぐものになるということがわかった。

ー では、写真はいつもそこにあったのですね。カメラがいつもカバンに入っていたのですか?

そうだね。本当にそうだ。それから、ストーンマスターのグループにもかなり早い時期に参加した。僕はすごくいいクライマーというわけではなかった。僕だって良いクライマーだったけど、彼らは飛び抜けていることがよくわかっていた。自分がグループに持ち寄れることのひとつは写真だろうなと思った。グループの1部として貢献できると感じたんだ。

ー ストーンマスターはどのように出来上がったのでしょうか?みなさんはどのように出会ったのですか?

南カリフォルニアの、LAから120マイルほど離れた、スーサイドロックという場所で全てが始まった。70年代の初期、ジョン・ロング、マイク・グラハム、リッキー・アッコマッゾ、リチャード・ハリソン、それからあと何人かがその地域でクライミングしていた。僕たちは若くて、(みんな高校生だった)60年代からのクライマーたちからは、僕らは嫌われていた。20代なかばから30代はじめくらいの人たちで、キャリアがあって、という人たちだ。僕らは無礼で、不愉快で、マリファナを吸って、笑い声がうるさすぎて、変な服装だった。それで、ジョン・ロングは彼らの一番難しい登攀、ヴァルハッラというクライミングだったんだけど、彼とリッキー・アッコマッゾとリチャード・ハリソンがそこに行って登ってみた。いとも簡単に、完璧にね。

彼らが降りてきたとき、自分たちをストーンマスターズという団体として宣言した。それ以降、その場所を登った者がストーンマスターだということになった。通過儀礼だ。前の世代を超えた、新世代の一員だということだ。

僕たちが皆ヨセミテに行ったのは、73年か74年だったけど、たぶん10歳くらい年上のジム・ブリッドウェルがロン・カウク、ケヴィン・ウォレル、マーク・チャップマンなんかの弟子を育てていて、その人たちみんなと、同じビジョンを共有する、1つのグループになった。ジムはそのときに、搜索救助隊のリーダーで、自分の友達を参加させたから、好きなだけヨセミテでキャンプすることができた。

僕らは皆ヘッドバンドをして白いペインターパンツを履いていた。そしてできる限りハードにクライミングをしたがっていた。スタイル、見た目、服装だけじゃなくて、どのようにクライミングするかも問題だった。70年代だったから、ドッグタウンやZ-Boysの奴らともよく比べられた。みな同年代で、70年代に大人になったけれでも、60年代育ちだから、自分たちだけの革命を欲していた。


ー その時代に多くのアウトドア・ライフスタイルのものが芽吹きましたね。ロッククライミング、プールスケーティング、 マウンテンバイク、BMX。これらの火付け役になったのはなんだったんでしょうか?

70年代にこれらが起こった理由は、ガソリンが1ガロン25セントで、1ドルでマカロニチーズを4箱買えて、もう1ドルでツナ缶を3つ買えた。1月25ドルあればどこでも暮らしていけた。 親の世代は、その前の世代よりもかなりリベラルな考え方だったから、すぐに大学にいくことを期待されなかった。ヒッチハイクができた。ヨセミテに行き始めのころ、ジョン・ベイチャーと一緒に350マイルほど離れたサンフェルナンドバレーから1日がけでヒッチハイクして行った。問題なかった。道具は安かった。冬にアルバイトして何百ドルか稼いで、夏と秋をしのぐことも容易かった。経済と、期待されている人生設計がゆるんだことが、このようなスポーツが盛んになることに貢献しただろうと思う。

同じようなことが90年代後期にも見られた。そんなに必死で働く必要はなかったし、物価もリーズナブルだった。9・11以降は、状況が確実に変化した。

ー そんな風に考えたことがなかったですが、言われてみれば確かにそうですね。皆さんと、カリフォルニアのサーファーやスケーターたちとのクロスオーヴァーはありましたか?

何が起こっているかハッキリとわかっていたし、張り合っていた。白いペインターパンツとヘッドバンドはそこからきた。ヒッピーとの区別をつけたかった。僕たちは長髪だったけど、ヒッピーと言われるのは我慢ならなかった。サーファーがサーファーであるように、僕らはクライマーだったから。クライミングとサーフィンの違いは、ビーチには女性がたくさんいて・・・クライミングにはあまりいない。社会的にのけものになる覚悟はしないといけなかった。

それから、1970年代にストーンマスターをコミュニティーとして結合させた1つの出来事は、暴動があったことだ。サマー・オブ・ラブのあと、ヒッピーたちは何かやることを探していた。それで、ヨセミテでラブ・インをしようとしたんだ。草地を占拠したけど、レンジャーは催涙弾を放って、馬に乗って彼らを追い出した。でもヒッピーは反戦主義の活動家たちだから、自分たちが何をすればいいかわかっていた。催涙弾を投げ返して、レンジャーを馬から引きずり下ろした。やっつけたんだ。レンジャーはヒッピーたちを立ち退かせるのに州兵を呼ぶはめになって、それいらい国立公園はヒッピーが来たと思うやいなや、頭がおかしくなったようになった。

僕らは境界線の外で寝泊まりしたり、マリファナを吸ったりしてやりたいように過ごしていたから、それも彼らの気に入らなくて、追いかけられることになった。あれは僕らと彼らの対立という精神だった。レンジャーたちが社会の代表という、僕らと社会の対立。あとは他のクライマーたちとの対立。僕たちほどクライミングがうまくなかった、ヘルメットやピトンを使って登っていた人たち。僕たちはクライミングにおけるエリートを自認していて、体制に迫害されているような気持ちになっていたから、革命家のような気持ちになるための素晴らしい方法だった。

ー すべての関連事項にとって、スタイルはどれほどの重要性を持っていましたか?自分たちを区別するための方法でしたか?

スタイルは全てだった。すごくスムーズに登って、保護する器具はあまり使わず、体が揺れたり震えたりしない。体操のことを意識していたから、全てが完璧に揃ってハッキリと明確になっていなければならないと知っていた。クライミングのスタイル、魅力を感じていたクライム、自分たちが用いた哲学・・・全てについて考えがあった。自分たちのスタイルを持つことが、他と区別する方法だった。

僕たちよりも前のクライマーたちは、ごついコンバットブーツを履いて、自作の器具を使っていたから、ほぼ骨董品同然だった。彼らのテクニックも古臭く見えた。彼らが何日もかけて登ったラインなんて、僕らだったら1−2時間で終わらせることができたから。でも、僕たちが追い抜こうとしていた前の世代が、僕たちの使っていたギアを作っていた。イヴォン・シュイナーがナットとロープを作っていた。

16歳の時に、友達何人かとベンチューラにあった彼の店、ザ・グレート・パシフィック・アイロンワークスに行ったのを覚えている。彼は、僕らが若造で金は持っていないのを見てとった。ナットのセットはいくらですか、と訊いたら、「いいか、お前たちにはここにあるものは高すぎるし、お前たちから金を取りたくない。一度だけ言う。俺のゴミ箱を漁るんじゃないぞ」それで、ゴミ箱を漁って大量のギアを得たよ。

ー たくさんモノをくれたんですね。

彼はもちろんわかってやっていた。僕らに自分の考えを継いでほしいとも思っていた。彼のカタログは、フリークライミングのなんたるかを伝えていた。僕らに教育を与えるモノになった。それからスタイルにもこだわりを持っていたから、それも確実に飲み込んだ。何人もの年上の男たちからガイダンスを受けた。



ー ということは、あなたたちの前の世代の人たち全員と対立していたと言うわけではないんですね。スタイルが図ごく重要だとおっしゃっていましたが、当時、誰からインスパイアされていましたか?

僕らはみんなジミ・ヘンドリクスを聴いていた。大好きだった。革命と自由を歌っていた。エリック・クラプトンも好きだった。それからカルロス・カスタネダからもすごく影響を受けた。ペヨーテとマッシュルームとクライミングをやっていて、ヴァレーでやりたい放題やっていたけど、懸垂やディップスなどのトレーニングもしていた。だから、ニンジャでもあり、探検家でもあるような気持ちだった。それからブルース・リーも。全身ムキムキだったから。自分のスタイルがあってイカしてた。

ー ブルース・リーは強かったけど痩せていて、あなた方と似ていたのではないでしょうか。「世界最強の男」はクライミングはできないですよね。

そう、それは無理だ。僕らはできるかぎり痩せていた。ちょっとでも余計な体重があると、登るのが遅くなる。僕らは自分たちを定義しようとしていた。モノはマーケティングされていて、それに気づいている。食器洗い機の洗剤から、タバコや映画だってマーケティングされている。「スーパーフライ」が上映された時は、皆が急にベルボトムと厚底靴を履いて、少しでもフライに見せようとしたものだ。僕らもお金がないなりに、できるだけ全部取り入れようとした。簡単にキャデラックを買ったりはできなかったけど、50ドルで車が買えた時代だから、大した問題にはならなかった。

スタイルは振る舞い、見た目、それからサングラスの種類にまでも反映された。大体は古着屋ファッションを採用していた。古着屋に行って、60年代のクールなナイロンのやつを買って、ペンキ屋に行って白いペインターパンツをタダ同然で買った。それからバンダナをした。イケてたよ。

ー ペインターパンツを履いた理由は?

ロイヤル・ロビンスが白いパンツを履いていて、ブリッドウェルも白いパンツを履いていた。誰がペインターパンツを発見したか思い出せないけど、ペンキが付いたら捨てるためのものだったから、すごく安かった。それにドローストリングが付いていて、体型が太めであろうと細めであろうと、紐で調節できるから大丈夫だった。バギーで軽くて、破れなかったし、厚めのキャンバス製のものでも安かった。

シャツを着ないでその白いパンツを履いて、ヘッドバンドなんかすると、かっこよかった。僕らは特別に見えたよ。他の皆は、僕らの足元にも及ばない変なアウトドアパンツを履いていた。僕らは完全にかなり自惚れていたね。



ー 70年代半ばのヨセミテでは、どんな1日を過ごしていたんですか?

捜索救難していないときは、草地でキャンプしているか、山の上の洞窟に行っていた。降りてきてカフェテリアに行くと、そこで集合した。ただ、誰も食べ物を買う金を持っていなかった。その頃は、皿洗いとか、食べ終わった皿を下げる係員なんていなくて、食事が終わったあとはカフェテリアの一角に向かって進むベルトコンベアがあるだけだった。クライマーたちはベルトコンベアの隣のテーブルに座って、観光客が食べ残した皿をベルトに載せるのを待って、それが流れてきたら皿をとる。それからコーヒーをくすねる。あとは、最低でも月に2回くらい、40代はじめの女性がテーブルにきて、「あんたたちを見ると息子を思い出しちゃう」と金をくれた。なかなか頻繁にそういうことがあった。

ー それは親切でしたね。

良かったよ。それからイギリス人のクライマーがたくさん来ていて、金はないけどサバイバルする方法や盗みの方法をよろこんで教えてくれた。いろいろ学んだ。だけど言ったように、普通の日は食べ物をいくらか盗み、タバコをいくらか吸い、その後でグループの皆はカフェテリア近くの草地に行って円座でマリファナを吸い、ペアを組む。その日にどこを登るか決めて、でもグループの中に車は一台くらいしかないことがほとんどだったから、目的地までヒッチハイクする仲間が何人か、その他は自転車で向かった。それから、クライミング。だいたい1日じゅう。

おもしろい生活リズムだった。1日のどの時間帯でも、仲間が皆どこにいるかがわかっていたから。10時から4時のあいだはクライミング。5時以降は草地で友達を見つけ始める。その後は暗くなるから、山小屋に行くと、みんなそこにいた。

ー そういったこと全てが起こる間じゅう、あなたはカメラを持っていたんですね。

だいたいいつもカメラは持っていた。ミノルタと50ミリレンズ。写真を勉強していたから、冬は写真現像室で働いていました。朝クライミングしたあと、一番最初に現像するのは自分のフィルムだった。その後クライミングしている人たちのところに写真を持っていって盛り上げてた。

それから他に誰がカメラを持っているかはすごく注意して見ていた。The Stonemastersやその他の本を制作し始めた時に、誰が写真を持っているのかちゃんと覚えていたよ。自分のどの本のためにも見つけた。Yosemite in the 50sにも、人々が存在していると思ってもいなかった写真が、ちゃんとあった。

 

ー 当時、あなたの写真をインスパイアしたものはなんでしたか?クライミングの写真が多く存在したとは想像しにくいのですが。

多くはなかったね。グレン・デニーの作品があった。彼は、昔、そして今も僕の作品に多大な影響を与えていたし、与えている。何種類かあったクライミング雑誌で彼(の作品)を見た。トム・フロストの作品も見たことがある。写真の勉強をしたし、なかなか知りたがりの精神を持ち合わせているんだ。図書館や本屋に行ってアンリ・カルティエ・ブレッソンなんか(の作品)を見たり、ヨセミテではアンセル・アダムスギャラリーに行った。だから、外の写真家の作品も知っていた。ドロセア・ランゲやエドワード・シュタインのドキュメンタリー写真とか。だから、いい写真がどんなものかっていうことは知っていた。

ー あなたは、クライミングだけではなく、その周辺の出来事も撮影していましたね。それは、意識的にそうされていたのですか?

そうだね、かなり早い時点で故意にそうするようになった。友達の写真をとって一緒に過ごすのも好きだったし、できるだけ良いものを撮ろうとおもっていた。カメラを自分の顔に当ててスナップを撮っていたわけでも、みんなに動いてもらうようにお願いしたわけでもなく、僕が動き回った。あれはブレッソン的なもので、その瞬間をとらえて、構成を見つけるみたいな。それでうまく行っていたと思うよ。

ー 当時撮影されていたころには、個展や出版などを念頭に置いておられたとは想像しにくいのですが。

それは僕が自然にやっていたことで、僕はそういう人間だった。初期に、ジョン・ロングと一緒にいくつかのクライミング雑誌にストーンマスターのことを取り上げてもらおうと思ってアプローチしたんだけど、マリファナを吸ったり、ロープなしでクライミングしたりしている写真だったので、拒否された。
彼らの求める型にはまっていなかったから。すごく保守的で、そのために作品は拒否された。2008年まで日の目を見ることはなくて、片付けられていた。


ー 90年代終わりの、ストーンマスターの再来ともいえる、ストーンモンキーの写真も多く撮影されていましたね。

 

彼らが出てき始めの頃、98年か99年のはずだけど、自分にこう言った。「ほんとうにラッキーだ。2匹目のドジョウじゃないか。いつもカメラを持ち歩こう」。彼らのエネルギーを感じたんだ。

多くの若い男女がヨセミテに集まりはじめていて、高校を卒業したばかりの、金がなく、食べ物をくすねる必要がある奴らだった。そしてレンジャーたちに悩まされ、それが仕事だけど、いたちごっこだった。それと同時にエル・キャップルートを攻める者があり、ディーン・ポッターみたいな人たちがフリーソロをしていた。全てがすごくエクストリームだったけど、70年代と全く同じだった。若さのせいで虐げられて、金がなくて、全ての出来事について完全に、情熱的に、自分たちを捧げていた。僕も同じ生き方をして、草地で眠り、レンジャーから走って逃げた。それで撮影できていた。




ー あなたも彼らの一部だったんですね。土曜の午後にだけカメラを抱えてやってくる新聞記者のおじさんではなく。

僕は観光客ではなく、撮影の為に雑誌から派遣されてくる誰かさんでもない。・・・雑誌はどちらにせよ雇ってくれないけどね。彼らにとっては、僕も彼らのストーリーの一部だった。でも僕はやっていけた。儲からないとわかっていたけど、ここでは金なんてないほうがいい。ここにいて、コミュニティの一部であることが重要だ。

それから、自分にこう言った。
「写真を撮っているのは誰なのか覚えておこう」。

自分が手を伸ばして、網をかけて、引き寄せることができるもの。他の人たちが撮った写真を見るのは素晴らしい。特に、1950年代のもの。たくさんの靴箱に詰まっている写真を見ていくのは本当に特別な体験だった。父親の世代の人たちだから、彼らに出会って、彼らのストーリーを聞くのはすごく面白かった。

ー 1950年代から今までのクライマーと話してみて、共通点を見出すことはできましたか?

あったよ。一番は彼らの大地とのつながりだね。彼らにとっては、クライミングは自由と同義。クライミングすることで、自由になることに近づく。完全に現在に存在することができて、自分自身を表現することができる。クライミングの話をするとき、彼らも自分と同じ体験をしていることがわかる。まるで世界が自分のものになったような感覚。自由への熱情、ルールを破って、社会の外に生きる。自分自身の運命を切り拓くために。

 

ー ストーンマスターたちやヨセミテのクライマーたちが伝説の存在になったのはなぜだと思いますか?皆その自由を切望していても、少数の人たちしか得られていないですよね。

そういう部分もあるだろうし、同じような時間はもう戻ってこないということがあると思う。80年代のクライミングはなんだか複雑なものになってしまったし、最近ではクライミングにパートナーシップはなくなってしまった。プロのクライマーは、自分の履歴に載せるために、クライミングの全ての行程を1人でリードしなければいけない。80年代に、昔のクライミングをノスタルジックに振り返るようになったのは、そこから切り離されてしまったから。数字を追い求めて、何かのてっぺんにたどり着くということだけになってしまったから、というのが理由の1つではないかな。

ー あなたは現在でも深く関わっていますよね、クライミングの撮影をして、本を出版して、ヨセミテのギャラリーでその地域の歴史を守っている。長い年月の間、ずっと関わってこられた理由はなんでしたか?

これが自分のパッションだから。僕はアーティストで、自分のキャンバスはクライミングだ。スティーグリッツが言っていたと思うんだけど「偉大なアーティストは、自分の裏庭で仕事を全て完結することができる」と。
僕の裏庭は、クライミングのあるところ全てで、そこにいけば写真を撮影することができて、コミュニティをつくることできる。

ヨセミテは僕が初めて恋に落ちた場所で、自分のアイデンティティを見出した場所。満足感を得られた場所だから、そこにいつづけたんだと思う。人生のうちで満足感を得られることは非常にレアな体験だし、ヨセミテが自分にとってのそれなんだ。

それから、友人の多くが亡くなってしまったから、本をつくって彼らの思い出を後世につたえることをしないわけにはいかない。彼らにたいする責任を感じるから、いつも新鮮な気持ちで取り組めるし、情熱を持てるんだと思う。



ー 本当にそうですね。だいぶお時間をいただきましたから、そろそろ終わりにしようと思います。何か最後にまとめの言葉をいただけますか?

うん、初めて恋に落ちたモノをいつも覚えているように。人生に大きな喜びをもたらしてくれるから。スポーツでも、場所でもいい。それらを忘れないようにすれば、情熱を持って生きることができる。情熱はいつも活性させておくべきものなんだ。

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